Communication will break down.

neko-vs2007-06-12


北野武初監督作品『その男、凶暴につき』を観た。これで3回目だ。

最初の2回はボロボロになったレンタルVHSで観たが、今回は映画専門チャンネルチャンネルNECO”で放送されたものなので、画面がきれいで観やすかった。

3回目なのに新鮮。しかし、台詞は印象的なものが多く、結構覚えていたりする。“凶暴な正義”を振りかざし、戦いの果てに燃え尽きていく男の怒りと苦悩と悲しみを生々しく描ききった心理描写と見る者に強烈な痛みを見せ付ける強烈な暴力描写が素晴らしい。そして1度聴いたら忘れられない音楽もこの映画に非常にマッチしていて素晴らしい。

だが、今回1つだけ残念だったのが、テレビ放送用ということで放送禁止用語がカットされていた点だ。その言葉とは“キチガイ”であり、作中では計3回使われており、この言葉をカットすると、どの場面も違和感があり過ぎる。どうせ放送するならオリジナルを尊重してそのまま放送してもらいたかった。不可能のなのだろうけど。

とにもかくにもいい映画だ。死ぬまでにあと20回は観ると思う。長生きしたらの話。

その男、凶暴につき [DVD]

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放送禁止用語とは何ぞや・・・

メディアには放送禁止用語などの制約が存在し、それに反しない限り言論の自由が保障されている(ということにして話を進める)。しかし、現在禁止されている用語などは本当はさほど危険でも有害でもないのではなかろうか。要はどんな言葉であれ、その言葉を発する人間がどのような気持ちで言葉を発したかが大事だということだ。

キチガイやメクラなどの言葉を口にしないように規則を設け、それに従っているだけでそういう人たちへの差別や偏見がなくなったと思い込むことのほうがはるかに危険だ。

言葉は大事だが、その力を過信しすぎることはその力を軽視することと同じくらい危険なことだ。

食べ物を粗末にする行動、下品な性的表現、差別的にとられる言動など、「これは悪影響を及ぼす危険がある。」と誰もが思うようなものなど禁止したところで世の中が改善されるという安直な考え方には賛成し難い。なぜなら、こういったものが放送されたとしても、それを見て「これは良くないなぁ。」と思える人格を持っていれば何の害にもならないからだ。そういった人格ができていない子供たちには親が「こういうのは良くないことなんだよ。」と教えてあげればいいのだ。汚いものにはフタをして、こういうものを子供たちに見せないようにすることはかえって子供たちに善悪の判断能力を付ける機会を与えられなくなることに繋がりかねない。

キチガイも○○コも、口にしてはいけないと大人は言うが、口にしてはいけないと教え込むためには「○ンコなんて言ってはいけません。」と自らがその言葉を使って言うしかないのだ。悪いお手本を示さずに子供を教育することなど不可能に近い。そのために我々は学校で歴史を学び、過去の過ちを知るのではないのか。

放送禁止になったり、PTAから非難されるような言葉、表現、映像なんかよりも、もっと有害で危険なものを俺は知っている。

・芸能人の私生活のあら捜しをして、真実だろうが事実無根だろうが構わず、有ること無いこと書きまくって金を稼いでいる週刊誌とそれを面白がって読んでいる低俗で卑しい人々の心。

・週刊誌の記事を事実確認もせずにテレビで放送する無責任なワイドショー。

・ある人物をさんざんチヤホヤした挙句、その人が逮捕か何かされたとたん「この人はホントにこまったもんですねぇ。」と寝返るキャスターやコメンテーター。

・己の利益のために改ざん、捏造した情報を流す者たち。

サラ金を“キャッシング”、甘いものを“スイーツ”、金持ちを“セレブ”、露出狂を“エロかっこいい”、無職を“フリーター”などと、マイナスイメージを持たれる言葉を新しい言葉で言い換た言葉を何の違和感も無く受け入れて使っている人々。(“キャッシング”はサラ金に金を借りるという行為への後ろめたさをごまかすため、“スイーツ”は甘いものに目が無い食欲の塊のようなやつらの卑しさをごまかすため、“セレブ”は金持ちの豪華で破天荒な生活に憧れる一般庶民の卑しさをごまかすため、“エロかっこいい”は己の肉体でしか異性の注目を集められないやつらの強がり、“フリーター”は職に就けない自分をあたかもフリーターという職業に就いていると思うことで己の存在価値をかろうじて守るため。)これらは全て自己欺瞞の道具として使われている言葉だ。

キチガイという言葉がここ十数年の間にタブーとなったように、今の風潮が続けば、今現在普通に使われている言葉も不適切だとか差別的だとか言われて使えなくなってしまうということは十分に考えられる。例えば、関西人の方々がよく口にする馬鹿者という意味の“ボケ”という言葉。この言葉にはもう2つの意味がある、一つは漫才における役割“ボケとツッコミ”のボケであり、そしてもう1つは痴呆と同義で使われるボケである。高齢化が進み、痴呆になる人も増えているであろう未来のこの国において、“ボケ”という言葉に過剰に反応して文句を言ってくる被害妄想を抱いた人々が現れないとも限らない。

言葉尻ばかりに目くじらを立てたり、表面的な言葉の意味だけを重視して、相手の心や意図を読み取ろうとしないことは言葉の死、すなわちコミュニケーションの崩壊を意味する。

そして、本当の“危険”は危険であることを悟られずに我々の生活に潜んでいる。


4年連続で子供に見せたくない番組1位になっている『ロンドンハーツ』なんかより有害な番組は他にいくらでもある。これは俺がロンハーが大好きであるということとは関係無い。

・まず、俺が子を持つ親だったら見せたくない番組は、肥満タレントが飯を食い歩いたり、うまい料理をひたすら紹介しまくるいわゆる“グルメ番組”だ。確かに食べることは生きていく上で一つの楽しみなのかもしれないが、とりあえずうまそうなものを映しておけば視聴率が取れるという今の現状は、「人々の心が貧しくなったから食い物にしか興味が湧かないのではないか。」と思えて仕方が無いのだ。俺はこの現象を“テレビのエンゲル係数上昇”と勝手に名付けている。

・セレブ、ヒルズ族、そんな耳にするだけで虫唾が走るような呼び名で呼ばれる人々の豪邸、高価な所有物、一般人には到底真似できない金遣いを放送し、それに対して憧れや羨望の意を表しているような番組も絶対に見せたくない。食い物のほかには金にしか興味が持てないなんて人として死んだも同然じゃないか。“金持ちに媚びる”を“セレブに憧れる”なんて言い直しているやつらの何と卑しく哀れなことか。

・どんなに低レベルでつまらない若手芸人でも出演することのできる“芸人寄せ集め型番組”は、今の放送の仕方を続けるならば、あまり視聴者に良い影響を与えないだろう。どんなにつまらない芸でも「わははははは!」という大げさな笑い声と共に放送されるので、視聴者、特に感情が未発達の子供たちはこの笑い声につられて笑い出し、いつのまにかそのつられて出た笑いが自分の笑いにすり替わってしまうのだ。その結果、どんなにくだらないことにも「ぎゃはははは!」と笑う馬鹿なやつになってしまうのだ。

・“視聴者が聴きたい音楽”ではなく“レコード会社が売り込みたい音楽”を金次第で垂れ流しにしている音楽番組も人々の心を貧しくする要因になっている。そしてこの“レコード会社が売り込みたい音楽”がイコール“視聴者が聴きたい音楽”になっていくという悪循環を断ち切る日まで、この国に真の自由な音楽市場は実現し得ない。あんな番組が薦める音楽ばかりを聴いて一生を終えるなんてあまりにもかわいそうだ。

『ロンドンハーツ』は高校生くらいになったら、むしろ進んで子供たちに見せるべきだと思う。この番組ではいわゆる“人間の汚い部分”というものが取り上げられることが多い。しかし、一方的に有ること無いこと他人の弱みばかりを突いている週刊誌やワイドショーとは違い、この番組では突く側と突かれる側が両方出演し、両方の立場がしっかりと映されているのだ。女たらし、尻軽、変態、そういったいわゆるダメ人間と呼ばれがちな人々の言い分も聞くことができるので、「ちょっとはこの人の気持ちも分かるかも。」と共感してみたり、「やっぱ、こんな人間になりたくねぇな。」と反面教師にしてみたり、という多面的な見方ができるのがこの番組の優れている所だ。むしろこの番組は他の番組よりも非常に“人間的”な番組だということができるのではないか。

第一、この“保護者が子供に見せたくない番組”という調査の存在意義も怪しいものだ。現代の“荒れている”といわれる子供たちを育てたのはあなたたち親ではないのか!あなたたちが良かれと思ってしてきた教育がこの現状を生み出した一因になっているのではないのか!見せたくないなどと偉そうなことを言ってはいるが、あなたたち自身が見ている番組といえば、芸能ニュース、食い物番組、金持ち番組、韓国ドラマぐらいのもんではないのか!

徹底的に“悪”を排除し、“無菌状態の温室”のようなメディアを作り上げたところで、果たして健全な青少年教育などというものが実現するだろうか、いや、しないだろう。短絡的で安直な正義を振りかざしたところで子供たちが非行や犯罪をしなくなるなんてことは無いだろう。特定の言葉や映像を禁止すれば子供が健全に育つなどという無責任な考えは捨てるべきだ。

ドラマ『伝説の教師』で松本さん演じる南波次郎が放った言葉「中途半端な正義が一番の悪ちゃうんか!!」はまさに正鵠を射たものであったといえよう。

自分に万が一子供ができたら『伝説の教師』は見せてやろう。