Be air!

太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中。』を今夜も見た。今夜はふかわりょう議員のマニフェスト“空気を読むことを禁止します法案”が面白かった。ので、この“KY”について思うことを、インタビュー形式で語ってみようと思う。

―ということで、今回は最近話題になっているKYについてですが、峯村さんはこの言葉の意味知ってますよね?

 もちろん知ってますよ。ハイスタの・・・

Ken Yokoyamaじゃないですよ。

 え?じゃあ難波さん?

―でもないです。

まさかツネさん?

―ハイスタから離れてください!つうか、もういいです。私の質問が余計でした。そもそも今回のテーマをKYにしようって言ったの峯村さんじゃないですか。

 そうでしたね。真面目にやりましょうか。

―それじゃあ、峯村さんは空気読める方ですか、読めない方ですか?

 読めない方でしょうね。というか、いわゆる“空気読めるヤツ”にはなりたくないですね。嫌悪感すら抱きますね。

―それは何故?社会生活の中では必要なことだと思いますが。

 いや、空気を読めること自体は決して悪いことだとは思いませんよ。色々役に立つこともありますし。俺が嫌いなのは“空気を読むことが善で、空気を読まないことが悪だ”と考えているヤツらなんですよ。大抵そういうヤツはこういうイデオロギーを無意識のうちに持っているもんですね。仲間に嫌われたくない、仲間外れは絶対嫌だと、そういう気持ちが生み出す考え方ですね。

―つまり、そういった集団至上主義の表れとしての“KY排除志向”が気に入らないというわけですね。

 まあ、そういうことになりますね。俺が理解できないのは、どうしてそこまでしてマジョリティーに自分をアジャストしなきゃいけないのか、どうしてマイノリティーになることを恐れてインディビジュアリティーをギブアップしなきゃいけないのか。

―あの・・・なんかルー大柴みたいになってませんか?もうちょっとわかりやすく・・・。

 つまり、何故自分の個性を放棄してまで多数派に属していることに固執するのか、それが理解できないんですよ。いや、理解できないのではなく、気に入らないんです。

―過剰な集団至上主義が個人の没個性を招く、と?

 正確に言うと、個性の芽生えるチャンスを潰してしまうということなんですよ。俺みたいな変わり者やひねくれ者は別として、普通の人にとって集団から排斥されることは非常に大きな脅威なわけですね。KYを排除しようとする動きというのはこの脅威を大きくしてしまうんです。その恐怖の前には個性などというものはあまりに非力で、全く太刀打ちできない。無個性な人ほど空気を読むのが得意なんですよ。逆に言うと、空気を読める人ほど無個性なんです。

―なるほど。先程峯村さんは空気を読めない方だとおっしゃっていましたが、何か具体的なエピソードがあったら教えてください。

 自分の中に「多数派なんてものは何てくだらないものなんだろう。」という想いが芽生え始めたのは中学生の頃でした。周りを見渡せば、みんな同じ歌を聴いて、同じ遊びをして、同じ服装をして、あ、服装は制服だから当たり前か。とにかく、みんな同じに見えたんです。同じになろうとしていると感じたんです。俺のクラスの男子には明るい多数派のグループと暗めの少数派のグループがいたんです。もちろん俺は少数派だったんでけど、もう一方の多数派のヤツらはみんな「ゴスペラーズ最高!ケミストリー最高!」なんつって騒いでたんです。7人くらいかな、その全員が本当に同じ歌手を好きなんてこと、あるわけ無いじゃないですか。本当にゴスペラーズとかが好きなのはグループの主導権を握っているヤツだけで、他のヤツらは仲間外れになりたくなくて好きだと嘘をついていたか、無理して聴いているうちに本当に好きになったと思い込んでるか、そのどっちかだと思いますね。これも一種の“空気を読む”ですよね。

―なるほど。テレビとか音楽の話題って友人間の雑談の話題としては絶対外せない常連ですもんね。これらの趣味が仲間と合わなければ死活問題だと。ちなみに峯村さんは当時どんな音楽を聴いていたんですか?

 NIRVANAとかRADIOHEADとか、偏った洋楽ばかり聴いてましたね。周りの人間はこういう音楽はご存じないようだったので、音楽の話は少数派グループの中でも全くしませんでしたね。するだけ無駄ですから。NIRVANAを「ニラ・・・バナ?」とか言って、正しく読むことさえできないヤツもいました。知らないから当然ですけど。

―ははは。ニラバナ・・・、ニラの花ってあるんでしょうかね?

 知るか!!

―あ・・・、すいません。ふざけ過ぎました。

 いや、謝らなくていいですよ。今の「知るか!!」はKYを実践してみただけです。

―もー、びっくりさせないでくださいよ。でも確かに、何の前触れも無く理不尽に怒る人って迷惑なKYですよね。

 あと、ちょっとした冗談を言っただけで「バシッ」とかなり強めに頭を叩いてくるヤツ。多分漫才師にでもなった気分なんでしょうけど、そのツッコミの言葉といい、タイミングといい、全く笑えない。それに、せっかくボケて場を盛り上げようとしている人に対して、「そんなボケいらんねん。」とかお笑いの大御所のような偉そうなことを言うヤツ。

―あー、いますね、そういう人。うちの職場にもいますよ。

 しかもそういうヤツに限って周りからは好かれていて、友達も多くて、コンパなどでも盛り上げ役として人気があって、いわゆる“空気読めるヤツ”として扱われてるんですよ。流行の音楽はよく聴いているし、サークルや飲み会には積極的、茶髪、オシャレ、そんな典型的な大学生。典型的な人ほど大勢に好かれる。

―あ、大学の話だったんですか。

 俺からしたらそんなヤツ、何の個性もセンスも無いチャラチャラした間抜け野郎にしか思えませんね。そいつもそいつなら、そんなヤツをチヤホヤしてるヤツらも同レベルですよ。そんなヤツ腐るほどいるじゃないですか。どこにでもいるような普通のヤツにわざわざなろうとするヤツの気が知れないです。いや、きっと普通になろうなんて意識は無いでしょうね。人に好かれようと努めた結果、当たり障りの無い無個性な人間になることが最良の方法だっただけで。

―峯村さん、大学生って嫌いなんですか?

 嫌いです。大学生は酒を飲むこととヤることしか考えていない、というのは言い過ぎかもしれませんが、俺が大学生という言葉を聞いて連想するのは「酒、カラオケ、コンパ、飲み会、合コン」くらいですね。それらの先にちゃんと就職活動を見据えているっていう真面目さも気に入らないですね。

―ひがみじゃないですよね?

 違います、多分。俺は“典型的な〜”っていうのが嫌いなんです。大抵の典型なんてロクなものじゃない。

―それじゃあ、その大嫌いな大学生のエピソードはありますか?

 エピソードというか、いつも思うことはありますね。例えば大きな教室で授業を受けている時なんか特にそうなんですけど、周りの生徒が全て同じに見える。全く個性の無い人間の集合体にしか見えない。ほら、コウモリが長い列になって一匹の龍のように飛んでる映像、見たことあります?それと、魚にも密集した群れになって泳いで一匹の巨大な魚のように振舞う種類がいますよね。一匹一匹が別々の意志を持っているはずなのに、あまりにもきれいな編隊を組んで寸分の狂いも無く全員で同時に方向転換する様は正に一つの巨大な生命体が一つの意志を持って動いているようにしか見えない。あれと同じです。

―もうちょっと具体的に?

 例えば、授業もそろそろ終了時刻が近づいてきたという頃に誰か一人が勝手に筆記用具等を片付け始める、するとそいつの立てた物音が一気に大規模な「ガサガサ、ザワザワ」という音にまで一瞬にして成長して、いつの間にか教室内のほとんどの生徒が勝手に片付けを開始していたり。あれも一種の“空気を読むコウモリの群れ”ですよね。あと、ある先生が「今年の〜大学の大学祭にはリア・ディゾンが来たらしいです。」と言ったら、教室中の生徒が「えー!うっそー!ザワザワザワザワザワザワ・・・」って騒ぎ始めた時。なんであんなにみんな同じ反応ができるんだか。みんなリア・ディゾンが好きなわけ?テレビに出ている人間なら誰でもいいんだろうけど。くだらないね。あと、なんといっても音楽ですね。みんな同じ音楽ばかり聴いてる。ヒットチャートしか音楽を知る場がないんですよ。「カラオケでみんなの知ってる歌が歌えないと困る。」なんて平気で言えるような人間はヒットチャートだけ見てれば十分なんですよ。確かにカラオケに行って他の友達の誰一人として知らない歌ばかりを歌っていると、聴衆から無言の非難を受けてるような気がして非常に居心地悪いですよね。だから付き合いで行くカラオケは大嫌いですね。中身の薄い流行歌ばかり聴いているのも、その歌に盛り上がってる人たちを見るのも苦痛でしょうがないですね。

―峯村さんは大学では孤立してるんですか?

 イエスでもあり、ノーでもありますね。まず、サークル、飲み会、合コン等には参加しません。楽しそうだとは思わないから。それでもクラスの人間とは仲いいです。クラスのほとんどは女子で男は俺も含めて六人しかいませんけど、半分くらいの女子とは話をしたりはしますよ。ただ、大学祭でクラスのメンバーを集めてドーナツの店を出すっつって誘われた時は「嫌われるかな?」とは思いながらもやんわりと断りました。向こうもそんな俺を批判するでもなく、嫌いになるでもなく、それまで通り接してくれているので助かってます。つまり、仲良くすること=誘いは絶対断らずに何にでも一緒に参加する、という強迫観念的な友情の定義を俺は否定しつつ、適度に距離を置いてうまくやっていこうとしているわけです。

―中学の時からそうだったんですか?

 基本的には変わってないですね。仲のいい友達でも、学校が休みの日にまで遊んだりとかはほとんど無かったですし。休みの日にもサバイバルゲームはよくやりましたけど、これは例外ですね。

―休み時間なんかは何して遊んでたんですか?

 池でカエルを捕まえたり、鬼ごっこ・・・はやってないか、うーん、憶えているのは大貧民ばかりですね。

―トランプの?大貧民ばかりやってたんですか?

 そう、大貧民ばっか少数グループと不良二人ぐらいでいっつもやってましたね。勝っても負けても貧民とか富豪とかにならずに、ゲームを始めるたびに全員対等な立場で戦うっていうルールで。

―体育館で遊んだりはしなかったんですか?

 体育館が使える日は学年ごとに決まっていて、使える日になるとクラスの男子はみんなバスケをしに行きましたね。多数派グループはもちろん、少数派グループや不良たちもみんな行っちゃいましたね。でも俺は行かなかった。バスケしたくなかったから。

―バスケ嫌いなんですか?

 するのは嫌いですね、疲れるし、突き指するし。しかも、みんな妙にマジになっちゃってさ、俺みたいに下手なヤツにとっては非常に肩身が狭かった。何であんなに大勢の男子がバスケばっかやってたんだろ。ま、明らかに付き合いでやってるやつらも半分くらいはいただろうけどね。俺はそうはなりたくなかった。本来やりたいことをやる、という自由なのが遊びじゃないですか。それなのに遊びにまで人付き合いを持ち込んで、やりたくもないことをやるなんてのに耐えられなかったんです。

―仲間であるはずの少数派グループもバスケに行ってしまっている時、峯村さんは何してたんですか?

 教室で机にうつ伏して寝るか、漫画を読むか、どっちかでしたね。

―え、それってつまんなくないですか?

 つまんないですよ。辛いと言ってもいい。でも、嫌々ながらにバスケなんてするよりずっとマシですよ。それでもやっぱり、女子だらけの教室で一人で机にうつ伏して寝ていると寂しい気持ちにはなります。寝ているといっても、そんな状況じゃやっぱり眠れませんよ。机にうつ伏しているだけですね。俺みたいに空気を読む能力自体はある人間にとって、自分のポリシーであえて空気を読まないようにすることは実はそんなに楽ではなかったりするんです。だから、褒められることはあっても、咎められるいわれは無いと思うんですよね。空気読んで四六時中つるんでる方が楽に決まってるんですから。

―何だか峯村さんの学校生活を振り返るインタビューみたいになってますけど、今回のテーマは“KY”でしたね。そろそろまとめに入りたいと思うんですけど、空気を読む毎日を送っている人たちに何か言うことがあれば、どうぞ。

 空気を読むことに人生を費やしている諸君、君たちが必死に読んでいるその“空気”とやらに、そんなに価値があるのか?そりゃあ、空気が読める方がモテるし、仕事もうまくいくだろう。だけど、モテることがそんなに大事なのか?いい給料貰うことがそんなに重要なのか?自分が自分らしくあることは二の次三の次、それともどうでもいいことなのか?うまくやっていくために、傷つかないために、他人と自分とを隔てる“違い”とか“個性”を無くしたいのか?そんなやつらはドロドロの液体になって溶け合ってしまえばいい。
 
―それってエヴァンゲリオンの最後みたいですね。

 そう。まぁ、血眼になって空気を読み続けた結果なんだから液体じゃなく、気体になって混ざり合うってのもいいんじゃないですか?「空気ばっか読んでるヤツは空気になっちゃえ。」ってことです。

―ミイラ取りがミイラになる、みたいな?

 それとはちょっと違うんじゃないですか?ミイラは好きですけど。じゃあ次回のテーマはミイラにしましょうか。

―次回のテーマがミイラになるかどうかはさておき、お疲れ様でした。

 お疲れ様でした。

                        (インタビュアー/川嶋 瞳)