Le chevalier est mort avec tristess.

 ストラト録音1曲。歌もつけなくちゃな…といつも思うが、付けるかどうかはまだわからない。


 最近、落書きをしていない。俺にとっての落書きとは授業中にする落書きのことである。どうしてしなくなったのか。一般常識から言うと、これは良い傾向なのだろうが、必ずしもそうとは限らない、俺にとっては。何故書かなくなったのか。

 曲を作るようになったからかもしれない。自分の中にあるものを吐き出す手段として、絵よりも音や言葉を使うことが多くなったからかもしれない。

 小学校1年生の時、牛の絵を描いて、学年から1人しか選ばれない大変名誉のある賞を受賞したことがある。それは、信州の子どもたちの絵を貴重な教育資料として100年にわたって収蔵保存していこうという“信州子ども絵画100年館”という信濃教育会の事業による受賞だった。今でもこの事業は続いているようで、捨てられていなければ俺の絵も信濃教育会教育博物館という所に展示なり保存なりされているはずだ。そして、2年生の時には何のコンクールだったか忘れたが、奨励賞を受賞した。

 それからだろうか、周りに「潤君は絵がうまい。」などと言われ始めたのは。本当はうまくもなんにもなかったのに。写生したり創作したりした俺のオリジナルの絵で評価を受けたのはあの小学1、2年の2枚の絵以外、全く無かった。俺の描く絵といえば、教科書やノートに描いた血まみれの絵や骸骨の絵などのグロテスクな落書きばかりだった。そんな絵ばかり描いていたものだから、中学の担任には「グロテスクな絵が多いね。少々心配です。」と言われ、遠まわしに危険人物扱いされたこともあった。

 確かに漫画や図鑑の模写にはそれなりの自信もあったし、確かにうまい方ではあった。しかし、所詮、それまでだった。だから、絵がうまい人が本当に羨ましい。それでも、美術部に入るなどして絵の腕を磨くことはしなかった。

 小学校5年生になって、絵という取り柄を失った俺は何の前触れも無く、何の脈絡も無く、唐突に、藪から棒に、何故か、足が速くなった。リレーの選手に選ばれたのだ。それからは、中学でも高校でも、足は速い方だった。運動不足の体力不足で、長距離走ではいつも限りなくビリに近い順位を占めているのに、短距離走走り幅跳びだけは得意だった。それでも、陸上部に入るなどしてその長所を伸ばそうとはしなかった。

 中学、高校では、“教科としての英語”がとりあえず俺の得意なものになっていた。しかし、大学生となった今では完全に錆び付いてしまった。

 いつもいつも中途半端だった。何をやっても中途半端だった。自分で中途半端に終わらせてきた。“神様”ってヤツが何度もチラリと糸口を示してくれるのに、いつも投げ出してきた。

 中途半端に終わらせず、自分の納得がいくまで究め続けられるものを見つけられるのだろうか?いつの日か。

 …そういうものが必ずしも必要なのか、という問も含めて、考え続ける必要がありそうだ。

 自問自答、自画自賛、自縄自縛、自己嫌悪、自家撞着の毎日の果てに待ち受けているのは、自己実現か、自業自得か…。