錯視、朔に溺れる
『爆笑問題のニッポンの教養』を見た。今回のテーマは“錯視・錯覚”だ。立命館大学の“錯視界の魔術師”こと北岡明佳教授のもとを爆笑問題が訪れた。
美しい錯視デザインがいくつも登場した。“動いてないものが動いて見える”、“傾いていないものが傾いて見える”、“大きさの等しいものが違う大きさに見える”・・・。
人間はものを見る時、見た視覚情報を脳に送り、その脳によって様々な処理をしながら映像として認識している。しかし、その処理能力には限界がある。コンピューターの演算能力が1,000,000,000回/秒であるのに対し、脳は1,000回/秒ほどしかない。そんな処理能力・処理速度の不足を補うために、脳は様々なトリックを使い、なるべく正確に認識できるように工夫している。複雑な形を単純化したり、目で捉えきれない情報を記憶で補ったり。
そんな脳によるトリックが時に錯視と呼ばれる錯覚を引き起こす。我々の見ている世界は、“そこにそうある世界”ではなく、“私にそう見える世界”なのだ。
「世界を客観視するということはあり得ない。その客観自体が自分から見た客観に過ぎないからだ。」
「錯視は心でしか見えない。」
「人生とは錯覚の連続。だが、その錯覚こそが“心と世界をつなぐ”。」
今回も非常に面白かった。相変わらず素晴らしい番組だ。今回の放送を見て思ったことを書いておこう。
我々は自分の記憶、人格、感情、言い換えるなら“自分の心”を通してしか世界を認識することはできない。どんなに理性を働かせようとしたところで、無意識の力には決して勝つことはできない。その証拠に、「これ、実際は動いてないんですよ。」と言われても、「そうだ、これは絵だ。動いてるはずがない。」と自分に言い聞かせても、動いて見えるように作られた錯視デザインを見れば、動いているようにしか見えない(心理現象なので個人差はあるが)。
我々は目の前に広がっている世界をありのままに正確に認識しているなどという妄信は捨て去らなければならない。それこそ錯覚そのものだ。
自分の心というフィルターを通してしか認識できない、それが世界だ。だから、人の心の数だけ全く違う世界がある。生まれつき目が見えない人が認識している世界と目が見える人が認識している世界が全く違うように、死後の世界を信じている人にとっての死と死後の世界を信じていない人にとっての死が全く違うように・・・。
アレキサンドライトという宝石をご存知だろうか。この宝石は当てる光の種類によって異なる色の輝きを放つ。太陽光を当てると暗緑色に、白熱灯の光を当てると赤色に輝くのだ。これは照射する光に含まれる色の違いによって、宝石内の不純物に吸収されずに反射される光の色が違ってくるということに起因する。つまり、「アレキサンドライトって何色の宝石?」と尋ねられても、答えは一つではないのだ。
ある物体が光を反射し、その光を目で受け取り、脳で認識する、という過程と、このアレキサンドライトの色の話はよく似ていると思う。アレキサンドライトに当てる光によって見えてくる色が変わるのと同じ様に、物を見ている者の“心という光”の違いによって、反射されて返ってくる映像は様々な色・大きさ・形を示すのだ。
“世界は自分の反映でしかない。恋をする相手も、憎む相手も、他人であって自分自身でもある。”ということだ。いつもいつも、こう思う。
「俺はたけしさんを尊敬している。」と言っても、「森田童子の歌は素晴らしい。」と言っても、所詮は“たけしさんのかっこよさ、おもしろさ、偉大さを知っている自分”のことが誇らしいだけであり、“森田童子の歌の歌詞の素晴らしさとメロディーの美しさを理解できる自分”が好きなだけなのだ。ただ、それが虚しいことだと言う気は全くない。俺が生きていけるのは、この気持ちを少しでもわかってほしい、ほんの少しでもこの気持ちを共有したい、という淡い希望を抱いているからだ。
このままずっとこの話題を広げて掘り下げていくのもいいのだけれど、あと何時間かかるかわからないので、ここで筆を置くことにする。最後に、今日この時点での結論を記して終わりにしようと思う。
“あなたと私が見ている世界が同じなどということは決してない。”
P.S.
今回の番組のレポートは『爆笑問題のニッポンの教養』のHPで御覧になれます。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/
また、今回登場した北岡先生がデザインした美しくて楽しくて不思議な錯視デザインもこちらで御覧になれます。必見です。
http://www.nhk.or.jp/bakumon/previous/20071127_illusion.html